手放すということ 8

だれをも差別しない。


愛とかスピリチュアルという、ともすれば浮いた感覚でとらえられそうな言葉の実体は、"だれをも差別しない"ということではないでしょうか。


身近な人は、身近であるがゆえに差別しやすいし、また、されやすいものです。


習慣として繰り返されるその人の愚痴や悩みを、いちいち新船に聞く耳を持てないからです。


かといって、いちいちとらわれずただ聞くという動じない心もできていません。


自然と、どこかへ追いやろうとします。


しかし・・・


だれかの老いていく不安、金銭の悩みなどをせせら笑い、ばかにしたときだけでなく、またいつもの話か、とまともに相手にしないとき「あなたはその人に対し、愛情どころか単なる友情さえ、抱いていないと知るべき」です。


「その人を、こうだと決めてかかって見るかぎり、その人はそのように振る舞い続けるしかない」。


・・・子供は元来、自分・他者と、自他を区別する意識を持っていないため、他人を信用するなと教えられれば、それは「自分を信用するな」と置き換えられます。


信用できなければせめて状況の方をコントロールしなくては安心できないという心のからくり。


コントロールしたがる人は、普通、その支配的言動によって"強い"とみなされがちですが、その心情はいつもビクビクしています。


不安と、他人だけでなく、自己にも向けられた不信感に自らが支配されているのです。


だからコントロールしたがるのです。


手放すということ 7

「もし、日々の暮らしのなかで目の前にいるお互いを愛することができないとしたら、目に見えない神をどうやって愛することができるだろう?


お互いを愛することができたとき、神はあなたの内にいる。


そのとき、あなたは浄められ、光の中に生きるでしょう」


・・・これはシェーカー教の古い言葉です。


天に輝くカラッポの概念と一体になることが愛ではありません。


愛とはわたしたちがそれぞれ、お互いとつながることです。


それは日々、絶え間なく生じる幼時や出会いの中に表され、それらを通じて実感されるものです。


毎瞬毎瞬、お互い何ら変わるところのない、平等な存在だと認め、そう見るように務めること。


お互いの中になじみのある姿を発見すること。


愛することによって愛に目覚めること。


安らかな心を伝えることによって、自信がより安らぎを得ること。


これまで人生を旅してきたあなたは、たくさんのものを重宝してきましたね。


今、あなたの心と宝がひとつになろうとしています。


たった今、あなたと共にいる大いなる、一つの命があることを、それ以外の何もかもを捨てれば、あなたにすべてが与えられることを信じて疑わないことです。


手放すということ 6

毎日、毎日、出会うものすべてに足跡をつけずにはいられない私たち。


その波紋はときにさわやかな風となって人々を癒し、また時には重しとなって人々に苦しみを与えます。


相手を安らぎの内に許し、祝福するか、疑いの中に裁くか・・・。


こうして、だれかを思い浮かべるごとになんらかの波紋を起こしているのです。


もし、この大いなる力、愛、命そのものを実感したければ、小さなエゴが作る殻を突き破って、自ら愛をさしのべなければなりません。


そしてそれは一瞬一瞬の、一挙手一投足にあるのでなければどこに見出せるのでしょう。


日々の、本当に些細な受容、忍耐、寛大な心と所作・・・


その小さな奇跡を通してのみ、この大いなる力がわたしたちを抱いていると知ることが出来るのです。


心のふるさとはどこにあると思いますか?


お互いの関係という大海にそれを見出さないで、どこに見つかるというのでしょう?


神の存在を実感できるところは、その関係をおいて他にありません。


手放すということ 5

それは愛、喜びそのもの。


言葉に尽くし得ない無限のひろがり、完全なる明るさ。


わたしたちを包み、受け入れるまるごとの命そのもの。


愛以外のすべてを手放せば、だれにでも感じられるもの。


だからわたしは呼びかけたいのです。


疑いや誤解を捨て、ただひたすら信じることに身を投じてください。


怖れも、望みも捨てて、あなたの人生そのものさえ解き放し、手放して、大いなる力にゆだねてごらんなさい。


大いなる命は今もあなたと共に息づいていて、あなたを離れたことはなく、死ぬまで見放すこともありません。


ただあなたの幸せと安心を願うもの。


あなたが時間も空間も超えたはるか彼方に放り出されたとしても、この大いなる力はそこであなたを受け止めてくれるはずです。


そして慰めとなってくれるはずです。


あなたが幼少のころからそばにい続けた友だから。


手放すということ 4

もはや愛は選択肢に入らない・・・


というのも、昨今起きていることは愛に対する懐疑を深めるばかりです。


しかし愛に対する懐疑が深まる一方で、それに対する渇望は強まるばかりです。


幼児虐待、家庭内暴力、介護放棄、現代は身近な人々に対してさえ温かい手をさしのべられなくなっています。


いえむしろそれだからこそ、一種のホームシック・・・郷愁が確実に芽生え、多くの人々の心の中で大きくなっているのではないでしょうか。


それはなつかしいおうちへ帰りたい、心のふるさとへ帰りたいと願う郷愁です。


このすべてを受け入れてくれる心のふるさとこそ、わたしが神と呼ぶものです。


神という言葉を使う理由は単に、それがいちばんしっくりくるから。


そうつぶやくだけで、大いなる力に抱かれていると実感できる言葉だからです。


それは呼吸よりもわたしたちの身近にあって、完全に無害でなんら怖れの対象となり得ないもの。


大いなる力、そのものです。


手放すということ 3

"時間外"という概念が奪いさられ、いつでもどこでも、寝ていようが、食べていようが、恋人とくつろいでいようが友人だけでなく仕事上の相手もこうした"便利な手段"をつかってどんどん侵入してくるようになったのです。


こうしてわたしたちはお互いの個人的時間と空間を侵すようになりました。


こうした変化は人々の心理にどのような影響をもたらしたのでしょうか。


お互いの影響から少しでも逃れるため、それぞれの個別性という部屋へ隠れ、他の人間から距離をとり、一人でほっと一息つきたくなる。


少しでも他人の影響を感じなくて済むテリトリーを確保しようとする。


その結果、他とはちょっとでも違う個性を強調するようになりました。


大家族は核家族へ、連邦国はいくつもの独立国群へ、政党は"派閥"に分派し、宗教も宗派に分かれ・・・というように。


しかしいくら他者から逃れようとしても、迫り来る人類の悲惨さを忘れようとしても、あるいはぬくもりを求めて親しい関係を追い求めようとしても、これからの人間関係の選択肢は二つに一つ。


他者との間により大きな違いを見出すか否か。


人との間に自分が見る違いの拡大か縮小か。


選択できるのはどちらか一つです。


手放すということ 2

生まれたとき、独り。


死ぬとき、独り。


だから生きている間だって、独り。


・・・とはいえ、現代人はみな強烈な孤独の中に生きています。


20世紀最後の数十年に起きた通信革命は、テレビの衛生中継などを通して遠隔地の人々の暮らしを身近なものにしました。


これまで知られていなかった、世界のいたるところで依然として貧困と飢えに苦しみ、死にゆく人々がいまもいる。


人類が体験していることは、先進諸国の人々が思い描いていた理想の楽園からはほど遠いと思い知らされたのです。


さらにこの時期、同じことは個人生活のうえにも影響を及ぼします。


留守番電話、携帯電話、メール・・・。


次々と繰り出されるこれらの通信革命のなかで、人々はそれまで確保できていた個人の時間と空間をお互いに侵しはじめます。

手放すということ

友達や伴侶との関係においてはお互いの意見や感じ方があまり違わないほうがうまくいくと考えられ、その証拠に意見の食い違いは人間関係の決裂を招き、たとえ近親者であっても「うちになじまない」という理由で離縁されても文句は言えないご時世です。


その対象がお嫁さんやお婿さんだけではなく、年老いてから面倒をみている(はずの)親であれ、引き取った(はずの)養子であれ「うちになじまない、相容れない」とみなされたら、放り出されることだってありえるのが実情です。


対して深い関係でなくても同じ方向を向いているということが付き合い上望まれていることは間違いありません。


ちょっとした顔見知りと交わす会話が、政治のことよりはお天気のことというのも、衝突を避けるために生活の知恵といえるでしょう。


家族のなかでも大人になった娘は母親と料理の話をし、息子は父親とスポーツ観戦などを通して会話がはずむのを体験するでしょう。

みな、同じ原理です。


しかし人間関係を分析すればするほど、だれ一人として自分と同じ人間がいないことがわかり「人との違いは人生のスパイスさ」などと呟いても心の中には孤独の風が吹き抜けます。

フロイドの夢理論

フロイドの精神分析はあまりにも有名ですね。


彼の考えによると・・・


・精神活動というものは、無意識の世界と意識の世界とに分かれる。


・無意識界には人が意識をしない欲望がひそみ、それが夢となって現われる。


・この欲望を否定したり抑圧ばかりしていると精神的、身体的のさまざまの病気が起こり得る。


・この欲望はしばしば或るシンボルの形で、または鍵となる言葉で表現される。


・だから人間の行為や言葉には表と裏のニ様の解釈がある。


・夢みる人は自分自身でその意味を解き得ないことが多い。


・それで夢判断(精神分析)の専門家が必要になる。


・・・というのです。


フロイドは毎朝目ざめると、15分後に自分の見た夢を思い出して、フランスベッドの上でそれを書きとめていたそうです。

「家紋の由来」

今日は、沖縄ツアーで人気のある謝名利山に伝わる、三つ巴御紋の由来についての話です。


謝名利山(鄭廻)の処刑は、慶長16(1611)年9月19日申の刻。


鹿児島の刑場は黒山の人だかりでした。


彼は琉球、三司官(三大臣)の一人で、タカ派として知られ、極刑に附されるとの噂も亦薩摩に拡まっていました。


その彼は検使役、相良日向守を尻目に、降伏文書の捺印を、断乎ことわりました。


彼は身の丈六尺、赤銅色の威丈夫で、白衣に荒縄を掛けられ、相良の読み上げる最後のいい渡しを、春風駝蕩ときき流しました。


一方では釜蓋が外され、立ち昇る湯気の中で熱湯が煮えたっています。


竈では薪がカッカと燃えています。


属僚の二人が謝名に近づき、両脇に腕を差し入れ、ひっ立てると見えましたが、その時早く、謝名は縄を千切り、沖縄民衆の怨念が結集された尚王家の三つ巴紋飛鳥の早業で属僚をひっ抱え、熱湯に身を躍らせました。


するとどうでしょう。


男三人の小さな髭をつけた頭が、熱湯の中で三つ巴になって左へ回転しました。


この昔話は尚王家「家紋の由来」として、沖縄に広く伝わっているものです。