就職・転職を考える 3

第二の基準は、その企業なり、業種、職種、仕事そのものが好きかどうかです。


好きなら多少のことは我慢できます。


またあとあとうまくいかなくても、あきらめがつくものです。


しかしこれも結婚と同じで、そのときは死ぬほど好きでも一緒になってしまえばそれほどのことはなく、結婚した途端に冷めてしまうという例も多いですね。


会社の好き嫌いも多分にその儂れが強いので、そのへんは冷静にみきわめておかなければなりません。


また会社は第一志望で、業種も好きな所へ入れたとしても、配属された職種がまったく希望外というケースも多いです。


編集をやりたくて講談社に入れたのはいいですが、配属は営業だったなど、職種的にあわなければ、好きな企業を選んだことになりません。


そして次は結論みたいなもので、就職も人生の一イベントと割り切ることです。


人生にはいろいろの形があり過ごし方があります。


人によって目的もちがえばルートもちがいます。


油絵作品と同じで、その数と種類は無限です。


人生も人間の数だけバラエティがあります。


そのどれが価値あり、意義あるか・・・。


就職・転職を考える 2

もうすこしつきつめれば"どんな企業も今後はかならずオカシクなる"くらいの覚悟で取り組んでおけばよいでしょう。


昭和25、6年頃、学生に最も人気のあったのは石炭鉱業や水産会社、紡績や砂糖会社で、いずこも秀才しか行けませんでした。


逆にソニーはまだ東京通信工業といった時代で品川の隅に本社と工場がありました。


ナショナルやトヨタでさえ文科系には三流の就職先でした。


それが30数年経って当時の新入社員が定年を迎える今頃、業界地図はどう変わったか・・・。


当時一流といわれた石炭や水産、紡績、砂糖会社の名前をすぐ挙げられる大学生は少ないでしょう。


卒業時肩で風を切ってこれら名門企業に就職していった連中は、最近ほとんど同窓会に顔を出しません。


なかには名解から勤務先や住所の欠落している者もいます。


これでもまだ現在の優良企業を就職先として頑なに固執する気になるか・・・。


今から振り返ってみれば、個人も企業も栄枯盛衰は世の習いです。


むしろ20年、30年のあいだには有為転変、浮き沈みのあるほうが自然でしょう。


逆転のほうがかえって正常かもしれません。


私は就職の相談にやって来る学生にこう言います。


"キミが入学したときの人気学部、学科は、4年経った卒業時の今、やはり花形かね。就職性などはむしろ逆転しているのじゃないかね"


・・・たった4年間の短い期間でもそうです。


まして20年、30年先なら、変わらないほうがおかしいでしょう。

就職・転職を考える

大学4年までいったのと、高校をでてすぐ就職した人との生涯賃金が一致するのは51歳時だといわれています。


日本社会は企業の資本装備率や労働装備率が非常にすすみ、社員の能力格差による業績差が少なくなりました。


むしろこれからのサラリーマンは個人の運不運による幸不幸のほうが大きくなるでしょう。


会社格差、成長格差、個人能力差、学歴差が少なくなった情況下で、社内における出世競争だけが苛烈になれば、人間関係のドロドロした感情が強くなり、コネやツキがものをいうようになります。


サラリーマン人生もだんだん賭け事の勝負に似てくると思われます。


企業の規模、格、人気、信用などによるカッコ良さも会社選択には大事ですが、それも結婚や同窓会どまり・・・。


あとは女房がPTAや井戸端会議で自己満足するのが精一杯。


最後は会社の安定性ですが、こんなもの、10年先、20年先のことは神様でもわかりません。


定年退職するまでには30年以上あります。


古代マヤ文明の予言によれば2012年には世界が終わるといわれていますし、このような不安定なご時勢に、2030年や2050年までの安定を考えてもしかたがないでしょう。


私の経験でも昭和26年の就職時、誰が安宅産業が潰れると予想しえたか・・・。


商事、物産が再合同するまえの安宅は超一流の貿易商社でした。


こうみてくると就職や会社選択にはなにを基準にしたらいいのだろうという迷いがでてきます。


それにはまず第一に、これからの企業はいつどうなるかわからないということを前提にしておくことです。

この照明に注目! 2

歌舞伎で使われている黒と茶色と緑色の縦縞の幕を、一般に「歌舞伎幕」または「定式幕」と呼んでいますが・・・


以前はこれを東西幕と呼んでいました。


その理由は西から東に開いて、東から西に閉まるからです。


つまり、小屋掛けするときに客席を南に舞台を北側に設営したからです。


なお、東西幕の名称については、最近使われ方が変わります。


客席から袖幕(客席から見て舞台両側の黒幕)を通して舞台裏が見切れない(見通さない)ように客席からの視線を防ぐために張る幕のことをいう場合が多くなりました。


歌舞伎の初期は、舞台は能舞台を踏襲して切妻破風の板ぶき屋根をかけ、客席には屋根はなかったのでしょう。


そして、照明にはかくれん棒のようなものが使われていました。


この照明に注目!

梵天はもともと神降臨の場である舞台に神を勧請するための印です。


ちなみに能舞台の正面の鏡板(能舞台では正面の背景になる羽目板をいう)に描かれた松は神の働儲として神の宿るところを設けてあります。


また、日本の劇場であれば、市民会館、文化会館などの公共ホールに至るまで「松羽目」というセットが必ずといってよいほど常備されています。


書割りの羽目板に松が描かれているご存じの物です。


意識してもしなくても日本の「こや」には神様がいるのです。


阿國の時代の「こや」がどういう方位で建てられていたか、残念ながら日本の絵画は光と陰が描かれていないので正確なことはわかりませんが・・・


歌舞伎舞台として完成していくにしたがって段々にはっきりしてきます。


このような舞台照明としても、かくれん棒のようなものが今注目されてきています。


仏壇について考える 2

昔の人はよく、刺のあるバラのような花や、花の頭が落ちる椿のような花・・・


あるいは悪臭のある花は、仏花にふさわしくない、と避けていました。


しかし、故人の好まれるものであれは、常識はずれたものでないかぎり、何を供えても差し支えありません。


ただし、長くいつまでも供えてくさったり、ホコリをかぶったまま放置するような供え方は避けねはなりません。


創価学会 仏壇やお墓を常にきれいに掃除し、お参りする心がけがあれば、その人の心もきれいになるものです。


要は仏壇をきれいに保つという心の問題です。


仏壇について考える

創価学会 仏壇やお墓は故人の安息所であるとともに、あとに残って生きている人が故人と語り合うことのできる交わりの場所でもあります。


そこでは故人が生きているように私たちを見守り、語りかけてくれるところなのです。


そうした故人に、その生前の好物を供えることによって、私たちの心のかわきがいやされると信ずる者にとっては、そうせざるをえないのです。


もし私たちが、「人間の肉体が滅びたらあとには何も残らないのだ」「神も仏もあるものか」と考えているとしたら・・・


菓子や食物を供えるどころか、仏壇やお墓さえつくる必要はありません。


故人の冥福を祈る必要もありません。


・・・ただ、犬や猫のように遺骸の始末をしてそれで万事終わりにしたらよいので、葬儀をする必要もありません。


しかし、そうしてはおれないところに人間の美しい心の発露があるのです。

手放すということ 10

そんな生活、もうしたくない!


・・・とつくづく実感させられる事態にめぐりあったので、少しは自覚できるようになっただけです。


でも、だからこそ、決してあきらめない。見捨てない。自分をふくめてだれのことも。


そして続ける。


この基本姿勢から自分の内側をじーっと見るのです。


そして、放していきます。


わたしのささやかな経験から言えば、これを頭の中だけでやろうとしても無理なのです。


自分を見つめきっていく作業は全身運動です。


呼吸を手がかりに、あるいは体まるごとであたらないと、無理なのです。


なぜなら、ちょっと集中しようと思うと昨日食べたピザの味とか、さっきかかってきた電話の勧誘とか、これから出かけようと思う展覧会とかが飛び交って、気づいたら何時間・・・。


そのために昔からに日本では心身一一如といわれ、その実質稽古のための"道"文化が発達してきました。


武道一般、茶道、華道、書道など。


現代にはヨガ、気功など。


体に耳を澄ます訓練が可能です。


外側で起きていることではなく、内側の波や震えを感じ、体の中の景色を黒っぽい、明るいと見る。


あるいは足のうらを床や大地との接触面において丁寧に感じ取り、ゆっくり一歩一歩、進みます。


こうしたプロセスを通して、なにか、シンとした感じが出てくれば自分を見つめていっても、あまり騒がしくならずに続けられます。


何はともあれ、自分でやってみるのが一番です。


途中でいやになってもやめたらいけません。


自分のイメージにそぐわない自分を見るのはいやかもしれません。


しかし、それがはがれたらもっとすがすがしいあなたの本体が現れるのです。


それを信じるかどうか・・・。


途中でひと休みしてもかまわないので、どうぞ続けてみてください。


音読をしてみよう

英語を武器としている私には、音読はどうしても必要です。


それ以外に、私は音読を速読のために用いることがあります。


それは、こういうこと。


ある英文記事を音読する場合、最初のパラグラフを1分間に100語くらいのスピードで読み、2つ目のパラグラフで一気に150語くらいにピッチをあげ、3つ目のパラグラフでは加速度がつき、200語ぐらいになります。


1分間200語のスピードで読めるということは、初段級の力です。


声を出して読んでいる間は、いくら速く読んでも、内容は完全に把握できます。


しかし、200語以上になってくると、口の速さより眼のほうが速くなるのです。


そこで、テイク・オフ(目読)。


1分間300語~400語~500語となります。


私は集中するために、好きな香りの香水を部屋にまいています。


このリラックス方法はなかなかオススメですね。

手放すということ 9

だれをも差別しないという理念を実践するため、"引き金指向"を見つめなくてはなりません。


これにはある種の体力が要求されます。


忍耐力と勇気・・・。


自分の内側を見つめるのは村上春樹的にいえば心の井戸を掘る作業ですが、それなしにはわたしたちの生命の泉に触れることは出来ません。


その代替行為としてあげられるのは、外見を整え、履歴や経験、過去の功績や未来の空想に生きること・・・。


しかし、いつかはだれでも直視しなくてはならないことがあります。


それを死ぬ直前まで待つ人が多すぎるのです。


"差別しない"は自分を特別扱いしないということでしょうが、自分だけを人生のドロドロから除外視していると、死ぬという必然からも自分だけをはずしていることになります。


もちろん自分だっていつかは死ぬのだろうとぼんやり思ってはいても、目前のことに全身で集中しなくては、と考えるには至りません。


今日をぼちぼちこなせば、明日もなんとかやってくるという感覚。


時間がこぼれていく危機感はないのに、空想上の心配事をあれこれと作っては不安にかられます。


これはすべて、わたしのことです。